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なまけのおつむ

きちんと暮らして死んでいく

たちきること

昨年末に、LINEのアカウントを消した。
簡潔にいってしまえば、ふたつのことに疲弊をしたからだ。
相手が求めているのがわたし自身ではなくて、話の聞き役だということ。
そしていままで友達としていた多くのひとたちが、それにあてはまるのだということに気づいたこと。
それにきづいて、むろんわたしははなすことよりきくことのほうが好きだけれど、それでも、一方的、という行為は耐えられるものではなかった。
バランス。
生きていくうえでとても大切なもののひとつだと思っている。バランス。

もちろんすべてのひとの連絡を断つわけにはいかないので、すぐにあたらしくアカウントをつくりなおし、ともだちの欄には恋人だけをのこした。

しかし、気がつくと、いやでいやでしかたがなくて切ったはずの友だちが増えてきていることに気づいた。

逃れられないのか、と思った。

そしてわたしはまたLINEを消した。
そしてまたつくりなおし、恋人だけをともだちに追加し、ほかの友人たちをすべてブロックした。

必要のないものをきりすてる勇気は、いつだって必要なのだ。
まいにちバスルームでからだのよごれを落とすように、部屋のごみだしをするように、よぶんな脂肪をへらすためにトレーニングをするように、必要のないひとをきりすててたちきっていくことは、わたしにとって気のとおくなるほど退屈で幸福な幾度もくりかえされる生活のなかのいちぶぶんに過ぎない。

さて、眠るまえの読書と称して、いまさっき江國香織の「泣く大人」を読んでいた。
男友達について書かれているエッセイが載っていた。
江國さんには、きっとともだちがたくさんいるのだろう。

ひとりでも生きていけると思っていた。
ひとりでも楽しくあそんで生きられると思っていた。

しかし、江國さんの文章に触れて、わたしはいま、限りなくひとりなのだと思った。まけおしみを考えるひますらもあたえず、綿菓子が口のなかで一瞬にして溶けるようにわたしの心にその感情がわたしの一部になった。

もちろんひとりでも生きていける。
もちろんひとりでも楽しく遊んでいられる。
でも、それはすこしだけ、さみしいことなのかもしれなかった。
わたしが完ぺきな孤独でなかったら(わたしは孤独ではないけれど、ゆっくりと着実にちかづいている)、そんなことは思わないだろう。

幼稚園からの男友達を思いだす。彼はいまでもつきあいのある、信頼しあい愛しあっている大切な友人だ。

わたしは、しずかに、音もたてずに、彼のアカウントをともだちに追加し、

そして、LINEをいつでも辞められるように無機質にしていたきせかえを、一種のおかしさでもって、水森亜土ちゃんのものにかえた。
そこはかとなくがさつで愉快なきもちになりながら、わたしは彼からの返信をまつことにしよう。